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高森明勅
2020.4.30 06:00皇室

国家秩序の頂点

天皇には歴史的に3つのお立場が認められる。
これまでも繰り返し指摘して来た。


①皇祖(天照大神)の“系統と精神”の正しい世襲継承者

②国家の公的秩序の頂点
③国民結合の中心

これらのうち、①は初代天皇とされる神武天皇以来の
お立場と言える。
以来、一貫して揺るがない。
③は推古天皇(33代)から持統天皇(41代)に至る間に形作られた。
但し、その後の歴史の展開の中で、そのお立場が曖昧化した
局面もあった。

例えば、天皇と国民(公民)の関係性を総括する大嘗祭が
中断した時期などは、その最たるものだろう。

これらに対して、②のお立場はいつ確立したのか?
大義名分論を振りかざせば神武天皇以来という見方に
なるのかも知れない。
しかし、それは実態とはいささかかけ離れた話になってしまう。
古事記や日本書紀には、崇神天皇から応神天皇(15代)にかけて
国内の統一が進み、朝鮮半島への勢力伸長があったと伝える。

これは、概ね考古学上の知見やシナ・朝鮮の史料でも裏付けられる。
古事記はその期間を中巻に収めた。
応神天皇の次の仁徳天皇(16代)から下巻としている。
古事記・日本書紀は、仁徳天皇を理想的な君主として描き、
一致して「聖帝」と称える。

記紀の歴史観では、仁徳天皇こそ②のお立場を確立した
天皇と見られていたのかも知れない。
一方、現在の歴史学では雄略天皇(21代)を王権の“画期”と
位置付ける見方が有力だ。

拙著『日本の10大天皇』でも、独自の視点から同天皇を
「並びなき君主」と評価した。
先頃のわ即位礼正殿の儀で用いられた高御座(たかみくら)の
源流に当たる「壇(たかみくら)」に昇る即位の儀式が、
史料の上で最初に確認できるのも、この天皇の時だった。
或いは雄略天皇こそ、②のお立場を確立された君主だったのかも
知れない。

万葉集の巻頭にその御製(ぎょせい)と伝える和歌を
収めているのも、同天皇が古代の人々にとって特別な
君主だったのを窺わせる。

その後、推古天皇の時に「天皇」というわが国独自の君主の称号
が定まった。

以降、国家秩序の頂点(最高権威)という位置は、
時代の変転を超えて現代まで維持されている。

【高森明勅公式サイト】
https://www.a-takamori.com/

高森明勅

昭和32年岡山県生まれ。神道学者、皇室研究者。國學院大學文学部卒。同大学院博士課程単位取得。拓殖大学客員教授、防衛省統合幕僚学校「歴史観・国家観」講座担当、などを歴任。
「皇室典範に関する有識者会議」においてヒアリングに応じる。
現在、日本文化総合研究所代表、神道宗教学会理事、國學院大學講師、靖国神社崇敬奉賛会顧問など。
ミス日本コンテストのファイナリスト達に日本の歴史や文化についてレクチャー。
主な著書。『天皇「生前退位」の真実』(幻冬舎新書)『天皇陛下からわたしたちへのおことば』(双葉社)『謎とき「日本」誕生』(ちくま新書)『はじめて読む「日本の神話」』『天皇と民の大嘗祭』(展転社)など。

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